2012年01月21日
エアガンシューティングとの因縁 その8
さて、さっそく前回の続きを進めましょう。
やはり当時の写真は一切無いので、
私のハイキャパの画像を交えてお届けいたします。
第4回プラチナカップ当日の朝になって
いきなり責任者をまかされた当時の私が、
どのようにしてイベントを仕切ったものか。
全体的な流れについてはほとんど記憶が無いのですが、
断片的な光景は今でも脳裏に焼きついています。
練習中にリアサイトのアクリル棒が吹っ飛びました
最近よくコメントを残してくれている
あの時のスタッフの一員だったT2氏も、
個人的なメッセージのやりとりの中で
「当時の記憶がほとんど無い」と述懐していますが、
それもむべなるかな。
個人の処理能力の限界を遥かに超えた様々な事態が
スタッフ各人に強烈に圧し掛かっていたあの状況では、
目の前のマッチの進行をひたすらこなすこと以外に、
出来ることが何ひとつ無かったのです。
修復ついでにフリーダム・アート製フラッシュフロントサイトのアクリルも外します
何しろ続々と押し寄せる出場希望者と、
企業ブースとマッチ見物が目的の来客が、
何時になっても止まる気配すら無く、
決して狭くは無い後楽園ホールのフロアーが
文字通り立錐の余地も無い状態になっていました。
また、複数エントリーを可能としたことが災いし、
各ステージ間の連携も取れていなかったため、
シューターの撃つ順番が重なったり、
逆にいつまで待っても順番が回って来なかったりと、
マッチの進行は大混乱。
フリーダム・アート製の集光アクリル 全色取り揃えております(笑)
かてて加えて、完全にキャパシティオーバーのため
これ以上のエントリー受付は不可能という判断から、
マッチを行っていた6階フロアーへの
一時的入場禁止措置を採ったことが
さらなる混乱を招きます。
不承不承ながら黙って帰る方もいたものの、
ほとんどの方は入場再開を待って、
ホールの廊下や内階段に座り込んでいました。
それだけならまだしも、
開場に持ち込んだエアガンをその場で取り出し、
中には廊下で試射を始める輩も出たりと、
事態は最悪の方向へと加速して行きます。
リアサイト側はグリーンに変更
さらには、入場を止められた来客の苦情の数々。
「何時間かけて来たと思ってるんだ!」
「責任者は誰だ! お前じゃ話しにならん!」
怒鳴りつけられた若いスタッフ
(私だって当時は20歳です)が、
涙目になって私に泣きついて来るものの、
泣きたいのはこちらも同じです。
「俺を誰だと思ってるんだ!?」
などと言う方もいらっしゃいましたね。
確かにある意味有名な方でしたが・・
見てくれは今ひとつですが、効果は抜群
来客側の立場になってみれば、
午後になってからゆっくり行けば、
ある程度は人も落ち着いているだろうと、
そう判断するのはごく当たり前のことですよね。
冷静になった今ではそのように考えることも出来ますが、
あの時の私にそんな心の余裕は微塵もありませんでした。
フロントサイトのアクリルは赤にしてみました
書いていてどんどん鬱になって来ますが、
知られざる第4回プラチナカップの舞台裏。
次回完結の予定です。
やはり当時の写真は一切無いので、
私のハイキャパの画像を交えてお届けいたします。
第4回プラチナカップ当日の朝になって
いきなり責任者をまかされた当時の私が、
どのようにしてイベントを仕切ったものか。
全体的な流れについてはほとんど記憶が無いのですが、
断片的な光景は今でも脳裏に焼きついています。
練習中にリアサイトのアクリル棒が吹っ飛びました
最近よくコメントを残してくれている
あの時のスタッフの一員だったT2氏も、
個人的なメッセージのやりとりの中で
「当時の記憶がほとんど無い」と述懐していますが、
それもむべなるかな。
個人の処理能力の限界を遥かに超えた様々な事態が
スタッフ各人に強烈に圧し掛かっていたあの状況では、
目の前のマッチの進行をひたすらこなすこと以外に、
出来ることが何ひとつ無かったのです。
修復ついでにフリーダム・アート製フラッシュフロントサイトのアクリルも外します
何しろ続々と押し寄せる出場希望者と、
企業ブースとマッチ見物が目的の来客が、
何時になっても止まる気配すら無く、
決して狭くは無い後楽園ホールのフロアーが
文字通り立錐の余地も無い状態になっていました。
また、複数エントリーを可能としたことが災いし、
各ステージ間の連携も取れていなかったため、
シューターの撃つ順番が重なったり、
逆にいつまで待っても順番が回って来なかったりと、
マッチの進行は大混乱。
フリーダム・アート製の集光アクリル 全色取り揃えております(笑)
かてて加えて、完全にキャパシティオーバーのため
これ以上のエントリー受付は不可能という判断から、
マッチを行っていた6階フロアーへの
一時的入場禁止措置を採ったことが
さらなる混乱を招きます。
不承不承ながら黙って帰る方もいたものの、
ほとんどの方は入場再開を待って、
ホールの廊下や内階段に座り込んでいました。
それだけならまだしも、
開場に持ち込んだエアガンをその場で取り出し、
中には廊下で試射を始める輩も出たりと、
事態は最悪の方向へと加速して行きます。
リアサイト側はグリーンに変更
さらには、入場を止められた来客の苦情の数々。
「何時間かけて来たと思ってるんだ!」
「責任者は誰だ! お前じゃ話しにならん!」
怒鳴りつけられた若いスタッフ
(私だって当時は20歳です)が、
涙目になって私に泣きついて来るものの、
泣きたいのはこちらも同じです。
「俺を誰だと思ってるんだ!?」
などと言う方もいらっしゃいましたね。
確かにある意味有名な方でしたが・・
見てくれは今ひとつですが、効果は抜群
来客側の立場になってみれば、
午後になってからゆっくり行けば、
ある程度は人も落ち着いているだろうと、
そう判断するのはごく当たり前のことですよね。
冷静になった今ではそのように考えることも出来ますが、
あの時の私にそんな心の余裕は微塵もありませんでした。
フロントサイトのアクリルは赤にしてみました
書いていてどんどん鬱になって来ますが、
知られざる第4回プラチナカップの舞台裏。
次回完結の予定です。
2012年01月21日
エアガンシューティングとの因縁 その7
さて、ちょっと更新が遅くなりましたが、
何をどこまで、どのように・・と悩みつつ、
前回の続きを書いてみました。
あの大会に関してお見せできるような写真等は
さすがに一切残っておりませんので、
私のハイキャパカスタムの画像を交えて
話しを進めさせていただこうと思います。
以前掲載したものよりほんの少しだけ
まともに写せたかな~と思いますので・・
さて、ここから本題に入ります。
エアガンのイベントとしては異例とも言える
2000人(Gun誌情報)もの来場者を集め、
大盛況のうちに終了した第4回プラチナカップ。
手元の資料によれば、この年の11月に開催された
ジャパンビアンキカップの出場者総数は219名。
単純に比較出来るものではありませんが、
少なくとも1986年のこの時点において
第4回プラチナカップは、
国内最大規模の集客を果たした
シューティングマッチだったと言っても
決して過言ではないでしょう。
しかし、主催であるプラチナカップ実行委員会・・
実質的にはK氏を中心とした
身内の数人の集まりでしたが、
この大会がここまでの規模になることを
まったく想定出来ていませんでした。
前年に行われた第3回大会を、
決してスムーズとは言えないものの、
大きな失敗もなく終えられた自信が災いし、
「今回も何とかなるだろう」
といった程度の認識でいたのでしょう。
マッチの進行に関するミーティング程度は
行ったような記憶があるものの、
トラブルの発生を見越した対応策等は
まったく考慮されないままに
大会当日を迎えてしまったのです。
集められたスタッフは私をはじめ、
イベントを仕切るだけの経験も知識も
ほとんど持ち合わせていないただの素人集団。
そこに、協力を申し出てくれたと言って
当日の朝になってK氏が連れて来た
何人かの読者シューターの面々が加わり・・
十数人程度の数にはなっていたでしょうか。
まぁ、2000人を捌ける数ではありませんよね。
しかも、これははっきり覚えているのですが、
いよいよ開場直前というその時になって
K氏がこう言い放ちました。
「ワシは取材で撮影しなきゃならんから、
今から責任者はカズヤ、お前な。」
イベントの全責任をいきなり押し付けられたのです。
あまりにも突然のことで頭の中は真っ白になり、
その後どうやってスタッフを配置し、
出場受付を始めたのか等が一切記憶に無いのですが、
恐怖の1日はこうして幕を開けました。
話しは次回に続きます。
何をどこまで、どのように・・と悩みつつ、
前回の続きを書いてみました。
あの大会に関してお見せできるような写真等は
さすがに一切残っておりませんので、
私のハイキャパカスタムの画像を交えて
話しを進めさせていただこうと思います。
以前掲載したものよりほんの少しだけ
まともに写せたかな~と思いますので・・
さて、ここから本題に入ります。
エアガンのイベントとしては異例とも言える
2000人(Gun誌情報)もの来場者を集め、
大盛況のうちに終了した第4回プラチナカップ。
手元の資料によれば、この年の11月に開催された
ジャパンビアンキカップの出場者総数は219名。
単純に比較出来るものではありませんが、
少なくとも1986年のこの時点において
第4回プラチナカップは、
国内最大規模の集客を果たした
シューティングマッチだったと言っても
決して過言ではないでしょう。
しかし、主催であるプラチナカップ実行委員会・・
実質的にはK氏を中心とした
身内の数人の集まりでしたが、
この大会がここまでの規模になることを
まったく想定出来ていませんでした。
前年に行われた第3回大会を、
決してスムーズとは言えないものの、
大きな失敗もなく終えられた自信が災いし、
「今回も何とかなるだろう」
といった程度の認識でいたのでしょう。
マッチの進行に関するミーティング程度は
行ったような記憶があるものの、
トラブルの発生を見越した対応策等は
まったく考慮されないままに
大会当日を迎えてしまったのです。
集められたスタッフは私をはじめ、
イベントを仕切るだけの経験も知識も
ほとんど持ち合わせていないただの素人集団。
そこに、協力を申し出てくれたと言って
当日の朝になってK氏が連れて来た
何人かの読者シューターの面々が加わり・・
十数人程度の数にはなっていたでしょうか。
まぁ、2000人を捌ける数ではありませんよね。
しかも、これははっきり覚えているのですが、
いよいよ開場直前というその時になって
K氏がこう言い放ちました。
「ワシは取材で撮影しなきゃならんから、
今から責任者はカズヤ、お前な。」
イベントの全責任をいきなり押し付けられたのです。
あまりにも突然のことで頭の中は真っ白になり、
その後どうやってスタッフを配置し、
出場受付を始めたのか等が一切記憶に無いのですが、
恐怖の1日はこうして幕を開けました。
話しは次回に続きます。