2012年01月13日
エアガンシューティングとの因縁 その3
本題に入る前にお詫びと訂正をさせていただきます。
前回記事の内容に、事実と異なる部分がありました。
つまりは私の記憶違いなのですが、
シューティングマッチが嫌いになったきっかけは、
第3回プラチナカップではありませんでした。
この大会はぐだぐだな進行ながら、
さほどの混乱もなく終了していましたね。
入場制限をかけたというのも間違いでした。
実は前回の文章を書きながらも、
コンバットマガジン記事中写真のスタッフの服装が、
私の記憶の中のそれと異なっていたのが
どうにもひっかかっていたのです。

そこで急遽実家に飛びまして(電車で2時間の距離ですが)、
家中ひっくり返して当時のCM誌を掘り出し、
記憶と事実の照合作業を行いました。
その結果、記憶から完全に抜け落ちていた事実が判明。

上画像が表紙のコンバットマガジン1986年5月号に、
第4回プラチナカップの開催告知を発見。

開催日時は昭和61年(1986年)4月13日。
開催場所は後楽園ホール5、6Fとなっていますね。

これを見たことで、
失われていた記憶がまざまざと蘇って来ました。
第3回プラチナカップの成功を受け、
本格的なイベントとして企画されたこの第4回大会は、
2フロアを借り切っての開催となり、
そのことがあの忌まわしい思い出に繋がるのでした。
さて、この告知記事の載った号は見つかったのですが、
肝心の大会レポートが掲載されているであろう
同年7~9月あたりのCM誌が、どういうわけか
どこをいくら探しても出てこないのです。
まるでその歴史を掘り起こされることを
拒否しているかのように・・・
というのはちと大げさに過ぎますが(笑)
曖昧な記憶に頼って、さらなる間違いを繰り返すのは
さすがに避けたいところ。
幸いネットで見つけた古本屋さんで
抜け落ちていたあたりのCM誌が売られており、
さっそく注文しましたので、それらが手元に届くまで
話しの続きは少々お待ちいただきたいと思います。
思わせぶりに引っ張っておきながら、
大変申し訳ない限りです・・・(汗)
代わりと言っては何ですが、
私、出二夢カズヤがコンバットマガジンに
初めて顔を出した記事をご紹介いたします。

1985年1月号。
実際には1984年の11月末に発売されたものですね。

この号のエアソフトガンテストレポートなのですが、
奇しくもミニウージーの記事なんですね。
やっぱりUZIとは何かの縁があるのでしょうか(笑)

この頃、当時CM誌の編集長だったフレッド氏が中心となり、
サバイバルゲームを日本で普及させるための
強烈なプロモーション活動が展開されていました。
ちょっと信じられない話かもしれませんが、
かの有名な芸能スクープ誌「FRIDAY」の創刊準備号に
サバイバルゲーム日本上陸なる記事が掲載されたのを始め、
民放各局のワイドショーやニュース番組で、
サバイバルゲームを紹介するフィルムが
立て続けに放映されたのです。
そのプロモーション活動のひとつとして、
あの「タモリ倶楽部」で2週にも渡り、
実際のゲームの様子も含めた映像が
たっぷり紹介されました。

いやぁ、タモさんが若いですな!
この号の記事はその時に撮影された写真を使って
構成されたものなのですが、
当時予備校生だった私もその場に呼ばれていたため、
ちゃっかり誌面に写っていたという次第です。

写真後列中央が当時の私ですね。
マルゼン製KG-9のポンプアクションカスタム、
通称「浪人スペシャル」を愛用していました。
この日のロケバスの中でK氏と意気投合し、
彼のアパートに出入りするようになったことから、
鉄砲業界にどっぷりハマリ込むことになります。
そしてK氏と行動をともにする中で、
シューティングマッチとの因縁に
否応無く巻き込まれて行くのですが、
この頃の私はそれを知る由もありませんでした・・・
といったところで、今回はここまで。
ちょっと趣旨から外れましたが、
お楽しみいただけたでしょうか。
ちなみに、実家に帰るついでに
赤羽射撃場に立ち寄りまして、
ガラスチューブ仕様のマルシン電動UZIの
命中精度テストもバッチリ行って来ました。

こちらも記事も忘れたわけではありませんので、
UZIファンの皆様は楽しみにお待ちくださいませ。
前回記事の内容に、事実と異なる部分がありました。
つまりは私の記憶違いなのですが、
シューティングマッチが嫌いになったきっかけは、
第3回プラチナカップではありませんでした。
この大会はぐだぐだな進行ながら、
さほどの混乱もなく終了していましたね。
入場制限をかけたというのも間違いでした。
実は前回の文章を書きながらも、
コンバットマガジン記事中写真のスタッフの服装が、
私の記憶の中のそれと異なっていたのが
どうにもひっかかっていたのです。

そこで急遽実家に飛びまして(電車で2時間の距離ですが)、
家中ひっくり返して当時のCM誌を掘り出し、
記憶と事実の照合作業を行いました。
その結果、記憶から完全に抜け落ちていた事実が判明。

上画像が表紙のコンバットマガジン1986年5月号に、
第4回プラチナカップの開催告知を発見。

開催日時は昭和61年(1986年)4月13日。
開催場所は後楽園ホール5、6Fとなっていますね。

これを見たことで、
失われていた記憶がまざまざと蘇って来ました。
第3回プラチナカップの成功を受け、
本格的なイベントとして企画されたこの第4回大会は、
2フロアを借り切っての開催となり、
そのことがあの忌まわしい思い出に繋がるのでした。
さて、この告知記事の載った号は見つかったのですが、
肝心の大会レポートが掲載されているであろう
同年7~9月あたりのCM誌が、どういうわけか
どこをいくら探しても出てこないのです。
まるでその歴史を掘り起こされることを
拒否しているかのように・・・
というのはちと大げさに過ぎますが(笑)
曖昧な記憶に頼って、さらなる間違いを繰り返すのは
さすがに避けたいところ。
幸いネットで見つけた古本屋さんで
抜け落ちていたあたりのCM誌が売られており、
さっそく注文しましたので、それらが手元に届くまで
話しの続きは少々お待ちいただきたいと思います。
思わせぶりに引っ張っておきながら、
大変申し訳ない限りです・・・(汗)
代わりと言っては何ですが、
私、出二夢カズヤがコンバットマガジンに
初めて顔を出した記事をご紹介いたします。

1985年1月号。
実際には1984年の11月末に発売されたものですね。

この号のエアソフトガンテストレポートなのですが、
奇しくもミニウージーの記事なんですね。
やっぱりUZIとは何かの縁があるのでしょうか(笑)

この頃、当時CM誌の編集長だったフレッド氏が中心となり、
サバイバルゲームを日本で普及させるための
強烈なプロモーション活動が展開されていました。
ちょっと信じられない話かもしれませんが、
かの有名な芸能スクープ誌「FRIDAY」の創刊準備号に
サバイバルゲーム日本上陸なる記事が掲載されたのを始め、
民放各局のワイドショーやニュース番組で、
サバイバルゲームを紹介するフィルムが
立て続けに放映されたのです。
そのプロモーション活動のひとつとして、
あの「タモリ倶楽部」で2週にも渡り、
実際のゲームの様子も含めた映像が
たっぷり紹介されました。

いやぁ、タモさんが若いですな!
この号の記事はその時に撮影された写真を使って
構成されたものなのですが、
当時予備校生だった私もその場に呼ばれていたため、
ちゃっかり誌面に写っていたという次第です。

写真後列中央が当時の私ですね。
マルゼン製KG-9のポンプアクションカスタム、
通称「浪人スペシャル」を愛用していました。
この日のロケバスの中でK氏と意気投合し、
彼のアパートに出入りするようになったことから、
鉄砲業界にどっぷりハマリ込むことになります。
そしてK氏と行動をともにする中で、
シューティングマッチとの因縁に
否応無く巻き込まれて行くのですが、
この頃の私はそれを知る由もありませんでした・・・
といったところで、今回はここまで。
ちょっと趣旨から外れましたが、
お楽しみいただけたでしょうか。
ちなみに、実家に帰るついでに
赤羽射撃場に立ち寄りまして、
ガラスチューブ仕様のマルシン電動UZIの
命中精度テストもバッチリ行って来ました。

こちらも記事も忘れたわけではありませんので、
UZIファンの皆様は楽しみにお待ちくださいませ。
Posted by カズヤ at 21:33│Comments(2)
│シューティングマッチ
この記事へのコメント
あはは、焦らせるねぇ。
ところでサバゲ初期の話しも面白いねぇ。マルゼンKG9のポンプアクションは大ヒットしたね。
ところでサバゲ初期の話しも面白いねぇ。マルゼンKG9のポンプアクションは大ヒットしたね。
Posted by TKUN at 2012年01月14日 05:25
Tkun様
いやぁまったく申し訳ない(汗)
サバゲ初期の話しはちょっと趣旨から外れるけど、
需要があるようなら書いてみようかね。
当時の写真も実家から掘り出して来るか・・
いやぁまったく申し訳ない(汗)
サバゲ初期の話しはちょっと趣旨から外れるけど、
需要があるようなら書いてみようかね。
当時の写真も実家から掘り出して来るか・・
Posted by 出二夢カズヤ(でにむかずや)
at 2012年01月14日 11:35

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