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カズヤ
カズヤ
その昔、某銃器専門月刊誌のライターと、某エアガン専門店での開発、販売を兼務。その後、某出版社に誘われ、エアガン関連ムックの編集に携わる。さらに後、某エアガンメーカーに誘われて入社と、80から90年代にかけて、エアガン業界にどっぷりつかった人生を送るが、ある理由により業界から撤退。
そして2012年、再び鉄砲業界に返り咲き、Gunsmith BATONに入社。充実した日々を過ごす中、2014年には人生初の渡米を果たし、憧れのイチローさんの下で、夢だった実弾射撃をついに体験! もはやこの人生に一片の悔いも無い、52歳の初老ガンマニア。

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Posted by ミリタリーブログ at

2013年07月22日

朋あり遠方より来る!

まずは今回の記事がほとんどの方にとって、
面白くもなんとも無い物になるであろうことをお断りしておきます。

UZIやマッチの話しをご期待くださった皆様には大変申し訳ございませんが、
次回以降はまた濃密な記事をお届けしますので、何卒ご容赦くださいませ。



ここにコンバットマガジンの1985年1月号があります。
実に28年以上も昔に発売された古~い本です。

この号に掲載されたモデルガンテストレポートのお題は
コクサイスーパーウェポンシリーズ、レミントンM700なのですが、
その記事の見開き扉がこちら。



昔懐かしいSWAT隊員のいでたちでM700を構える若者は、
当時のCM誌メインライター、あのケン野沢の一番弟子である武蔵さん。



古くからのCM誌読者の方ならご存知のことと思いますが、
ケンのアパートに居候しながら、レポート作りを手伝っていた大学生で、
鉄砲業界における私の兄弟子であり、バイクの師匠でもある方なのです。



同じ1985年の翌2月号でも、マルシンさんの最初のM1カービンの
エアーガンテストレポートの記事でもモデルをつとめています。



このM1カービン、私も当時買いましたっけ・・という話しは今回はさておくとして、
この後も武蔵さんはケンのレポートに幾度と無く登場していたので、
今でも良く覚えているというマニアの方は少なくないかと思います。

そしてこちらの1985年7月号。



コクサイさんが発売した歴史的傑作と言うべき金属製モデルガン、
NEW S&W M19のモデルガンテストレポートにおいて、
ケンのアイディアを形にした拳法家(笑)として登場した謎の男。





“江呂場研削拳“というわけのわからんフレーズはもちろん私の発案ですが(笑)
当時機械工としての修行を積んでいた江呂場テツヤこと水谷哲也君。



彼こそは今のシューティング界において知らぬ者はいない、
かのミズーリで日本人最高得点記録を撃ちたてたカップシューターの草分け的存在。
今やすべてのエアガンシューターの尊敬を集めているといっても過言ではない、
今は経営者として家業を継いでいる立派な男の若き日の姿なのです。



その前月の6月号でも、MGC製M16A1のモデルガンテストレポートにて
米兵のフル装備に身を固めてケンと同じページを飾っていたり、
同じ号のエアーガンテストレポートにもモデルとして登場していたりと、
まぁ、当時の記事作りの底の浅さを物語っている事実ではあるのですが(汗)
本業を持ちながらも、貴重な休みを削って誌面作りに協力してくれた仲間だったのです。





そしてそして、以前の記事にも書いてはおりますが。



1985年4月号におけるチャレンジクロスボーというタイアップ企画にて、
比出無カズヤというふざけたペンネームでライターデビューを果たしたのが、
今この記事を執筆しているこの私、若き日の出二夢カズヤというわけです。



ふざけた名前なのは今も変わりませんが(笑)なんと言っても若かった!!



上はそのクロスボーの記事内の写真ですが、もうあらゆる意味でピッチピチ!
髪の毛がふさふさしているあたりが特に、何もかも皆懐かしいといった心境であります(涙)

ちょいと話しが前後しますが、前出の85年11月号に掲載された
第3回プラチナカップのレポートには、スタッフとして参加していた
武蔵、テツヤ、私の3人が小さく写っているのですよ。



この時、マルシンさんのPFC版UZI+RWBのデモンストレーションを行ったのも
若き日の私でありまして、今もぶれないUZIへの偏愛ぶりが伺えます。
この時のUZIは今も実家で眠っていますしね。



と、このような古い話しをひっぱり出して来たのは何故かと申しますと。

上述のように、古き良き時代のCM誌上で活躍していた
武蔵、テツヤ、私カズヤの3人が去る7月9日の夜、
東京は新宿の地にて約二十年ぶりの再会を果たしたからなのです。



昔の写真と較べたら、3人とも随分老けはしましたが、
再会の瞬間は完全に昔のあの頃に戻った気分でありました。

私は単なる早番明けでの急行でしたが、
テツヤ君は名古屋での仕事を終えたその足で新幹線に飛び乗って、
武蔵さんは何と、アメリカのシアトルから帰国したタイミングで、
それぞれが新宿駅に集まったのです。

怪しげなオッサンたちが抱き合い、泣きながら笑っていたその様子は、
周囲の人にはさぞかし不思議なものと映ったことでしょうね(笑)

その日は新宿某所で、別々に歩んだこれまでの二十年を各々に語り、
私が持参した当時のコンバットマガジンを肴に、夜更けまで大いに盛り上がりました。



上は翌朝、武蔵さんが泊まっていた某ホテルの部屋での写真。
てっちゃんも同じホテルに部屋を取って、朝まで話し込んでいたそうです。
私も同席したかったのですが、女房が怖いので一旦帰宅したですよ(涙)

ネット回線と端末さえあれば、世界のどこででも仕事が出来るという武蔵さんは、
朝から大量のメールを手際よく処理していましたね。
強引に時間を作って上京したてっちゃんも、頭の中は仕事でいっぱいだったでしょう。

新宿西口駅の前~のヨドバシカメラ近くのとんかつ屋さんでランチを済ませ・・・
このお店がやはり二十年以上前に、かのトモ長谷川氏が偶然入って、
凄く美味しかったと言っていたというてっちゃんの思い出話をもとに、
ネットで調べて出かけてみたというエピソードがあったりしてですね(笑)
トモちゃんはこの記事、見てくれてないかな~??
あそこでまず間違いないと思うけど、確かに美味しいお店でしたよ。

その後は私の勤務先であるGunsmithバトンアキバ店へ移動。



事前に予約を入れておいたシューティングレンジにて、
MGCのM93R以来エアーガンを撃っていないという武蔵さんに
私のハイキャパカスタムでのシューティングを楽しんでもらいました。



いくらでも実銃を撃てる立場にありながら、あえて封印していたという彼ですが、
もともと抜群の射撃センスを持っていましたからね。
生まれて初めてのブローバックガスガンを、ほんの少々のアドバイスだけで
あっという間に使いこなしていたのは流石でした。



もっとも、そのアドバイスがてっちゃんの直々によるものですからねぇ。
私も以前、ほんのひと言もらっただけでいきなり当てられるようになりましたもの。
撃つだけでなく、教える技術も並大抵のものではないのです。



3人でたっぷりシューティングを楽しんだ後は、
神保町にあるSATマガジン編集部へ電撃訪問。

同誌編集長の浅香さんは、私と武蔵さんがCM誌ライター時代に
大変お世話になった・・という以前に、大変なご迷惑をかけてしまった大恩人。
1985年当時の浅香さんは、P若というニックネームの編集見習いで、
当時の我々にとっては仲の良い兄貴のような存在でした。
ケンと私が締め切りを守らず、それはそれは苦労をかけたのもですが・・・(汗)

そんな浅香さんに、私はこのところちょくちょくお会いしていたのですが、
武蔵、哲也の両名とは本当に久しぶりの再会で、
短い時間ではあったものの、思い出話に大いに花が咲きました。



編集部を辞去した後は、3人で東京駅に移動し、
新幹線で三重に帰るてっちゃんを武蔵、カズヤでお見送り。
多忙な中、この再会のために時間を割いてくれた彼には、
どれだけ感謝しても足りない思いです。

私自身も翌日は仕事があるため、
武蔵さんともその日の夜に新宿駅で別れたのですが、
ここではとても書き尽くせない様々な想いで胸がいっぱいになり、
大袈裟に聞こえるかもしれませんが、今日まで生きていて良かったと、
心の底からそう思えた、最高に幸せなひと時でした。



いやはや、今回は楽しそうなオッサンたちの画像ばかりでなんとも申し訳ないのですが、
この幸せを皆様におすそ分けしたくて、あえてこうしている次第であります。


これはちょっと前に心に決めたことなのですが、
物心ついてから48歳というこの年齢まで鉄砲を愛し続け、
人生のかなりの時間を鉄砲(トイガン)関係の仕事に費やしながら、
ここまでただの1発も実弾を撃ったことが無い事実を振り返った時に。

「こりゃぁ下手すると撃たずに死ぬぞ」

と、かなり差し迫った危機感を覚えまして、
5年後を目標に準備して、アメリカに実銃を撃ちに行く と決意したのです。

当然今回、武蔵さんとてっちゃんにも話したのですが、
じゃあ一緒にイチローさんのところに行こうぜという話しになり、
私の密かな決意に、かなりの勢いがつきました。

そして、この再会の話しと、5年後の渡米計画をイチローさんのブログ
報告がてら書き込ませていただいたのですが!!

ご、、! 五年後じゃと〜?!(-_^:)

ぶわかもの〜!!!(`ヘ´)!!!

来年のことを言うと鬼が笑うが
五年後だと鬼も死に絶えるわい(^○^)

来年のショットショウか6月のスティール
あたりで他の仲間と合流すべし。
盛大に射撃パーチーをやろうではないか!!



こんな有り難いお言葉を、かのイチローさんから頂戴出来るなんて、
これほどの幸運があって良いのでしょうか!?

当然ながら、武蔵さんもてっちゃんも大興奮!

イチローさんのお宅に行き慣れているてっちゃんは、
問題はまとまった休みを取れるかどうかだと心配してくれたのですが、
今度はイチローさんのブログを読んだという勤務先の社長から、
以下のようなメッセージをいただいたのです。

>金子くん ※私の本名

イチローさんのブログを見たけど、キミ、実銃を撃ったことないんだ。

じゃあ、「5年後を目標に…」とか言わずに、来年のスチールチャ
レンジでもビアンキカップでも参戦してくればいいじゃん。

うちの毎月の休みは8日+有給2日だけど、別に毎週休めと規定して
いるわけではないから、まとめて10日、そして、前後の月に有給を
とらないぐらいにすれば2週間ぐらい休み作れるでしょ。

あとはアキバ店のみんなに頼み込んでシフトを調整して、足りなけ
れば本店にも頼み込んで応援を呼ぶ段取りをすればいい。

薄給で申し訳ないが、1年後に向けて計画的に貯金すれば、費用も
なんとかなるっしょ

うちは休みを取りやすい会社だとは思うぞ、月刊誌の編集だと2週間
も休めないし。

5年後もキミがバトンTradingに務めてる保証はないし、会社が存続
している保証もない。俺は職を転々としてきて、最長でも1つの会
社に5年しか務めたことないしなw

ましてや、イチローさんもキミも5年後に生きている保証もない。
俺もキミもお互い、人生は半分過ぎてる。人生は残り少ないという
ことを自覚すべき年代だ。やりたいことは、やれるうちにやってお
かないと永遠に機会を失うぞ。

俺が本に書いたろ、「行きたい」と言っていて行ったやつはいない。
「行く」と言った奴だけが、そこにたどりつくんだ。

ま、検討してみれば d( ̄  ̄)


勤めている会社の社長から、直にこんなことを言っていただけるなんて、
世間一般ではちょっと考えられないことですよね。

その昔、本場アメリカのシューティングマッチに出場するため、
会社を辞めてまで時間を作った人たちを間近で見ていたものですが、
その時、勤務先の上司等からこんな風に言ってもらえた方は、
おそらくひとりもいなかったのではないかと思います。

鉄砲業界への返り咲きを志し、46歳にして決死の覚悟で応募した
Gunsmithバトン アキバ店新規開店によるスタッフ募集。

雑多で半端な職歴しか持たない初老のオッサンを拾ってくださった
Presidentバトンこと大塚社長には、私は今も感謝の念しかなく、
今回の件でさらにその想いが深まりました。

こんなこと書くと各方面から反感を買いそうな気がしますが、
バトン入社までの数年間、かなりみじめな生活をしていた私の、
これは偽らざる気持ちなのです。

鉄砲業界に復帰してからこっち、そりゃあ嫌なことだって色々ありますが、
本当に毎日が充実してて、最高に幸せなんですもの。


 いい顔してるでしょ?(笑)

ちょっと話しが脱線しましたが、武蔵、哲也というパートナーを得、
イチローさんと大塚社長に背中を押していただき、
私の渡米という夢は恐ろしい勢いで転がり始めました。

先日のエリートオペレーターズの会場で、
毎年ショットショーとスチールチャレンジに参戦している
LEMサプライの矢田ちゃんに色々教えていただき、向こうで合流しようという話しになり、
さらになんとあの石井名人からも同行のお申し出をいただいたりと、
何なのでしょうねェ、外堀がどんどん埋まって行くこの感じ(汗)

あとは鉄砲嫌いな女房の理解をいかにして獲得するか、
これが最大の難関となりますが、ひたすらに誠意を尽くすのみですナ。
まずは息子たちを味方にしなければ(笑)

矢田ちゃんからは、ショットショーに行くのが楽しいですよと
オススメをいただいたのですが、来年1月までに準備を整えるのは、
主に費用面で厳しいことが目に見えているため、
具体的には来年6月のスチールチャレンジを目指そうと思います。

とは言っても、マッチに出る気はないんですけどね。
てっちゃんの発案で、日本からのスチルチャ組が帰った後の、
マリポサの片付けを手伝いに行こうというのがそもそもの話しですので。

試合直前に合流して、応援がてら観戦して~てな感じでしょうか。
まぁ、具体的にはこれから詰めて行こうと思っております。
それこそ、鬼に笑われちゃいそうですからね~。

と、今回は単なる日記に終始してしまって本当にゴメンなさい(汗)
でも、ここはあくまで個人ブログですからね。
たまにはこんなこともあるということで、何卒ご容赦くださいませ。

もちろん、あの伝説のプラチナカップを支えた創立メンバーの3人が、
1984年の第1回大会から数えて29年目に集まったわけで・・・
今後の展開にちょっとだけ期待していただいても結構でしてよ?(笑)

最後に、我々3人以外誰も喜ばないであろう衝撃の劇的ビフォーアフター!

 1986年

 2013年


 1986年

 2013年


年を取るのって、悪くないもんですよ!!  

Posted by カズヤ at 23:30Comments(19)雑記