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カズヤ
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その昔、某銃器専門月刊誌のライターと、某エアガン専門店での開発、販売を兼務。その後、某出版社に誘われ、エアガン関連ムックの編集に携わる。さらに後、某エアガンメーカーに誘われて入社と、80から90年代にかけて、エアガン業界にどっぷりつかった人生を送るが、ある理由により業界から撤退。
そして2012年、再び鉄砲業界に返り咲き、Gunsmith BATONに入社。充実した日々を過ごす中、2014年には人生初の渡米を果たし、憧れのイチローさんの下で、夢だった実弾射撃をついに体験! もはやこの人生に一片の悔いも無い、52歳の初老ガンマニア。

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Posted by ミリタリーブログ at

2012年01月22日

エアガンシューティングとの因縁 その9

さっそく前回の続きなのですが、
当時の空気を少しでも感じていただけるように、
1986年当時のコンバットマガジンの、
6~8月号に掲載されている
広告ページの画像を交えながら
話しを進めてみたいと思います。


 残念ながら無くなってしまったMGC この頃はM93Rがメイン商品でした

ところで前回、全体的な流れについては
ほとんど記憶が無いと書いていながら、
けっこう詳しく覚えていることについてですが(汗)

私は現場全体の責任者として
開場中を奔走していたため、
マッチの流れを見ていなかったということで、
事態がどんどん悪化していく様子については
克明に記憶しているというわけです。

破綻して行くマッチ運営の調整に加え、
入場制限が納得出来ない来客の苦情対応と、
完全にパニック状態に陥っていた私でしたが、
そこに追い討ちをかける事態が持ち上がりました。

当日になってK氏が連れて来た外部スタッフが、
自分達が撃てないことに腹を立て出したのです。


 東京マルイさんは低価格でリアルなコッキング式エアガンを続々と発売していました

「話しが違う」などと言われたところで、
彼らがどんな条件でスタッフを請け負ったのか、
そもそも外部スタッフが参加することさえ
一切聞かされていなかった私には知る由も無いのですが、
混乱の度合いを増して行く状況におろおろする
現場責任者である私に対して、相当面白くなかったのでしょう。

「チッ! 使えねぇ奴!」

「役立たず野郎が・・」

「ぶん殴ってやりてェよ」

そんな言葉が聞こえよがしに会場内を飛び交います。

私自身、責任者として役不足な自分を
嫌と言うほど感じていましたので、
仮りにも身内であるスタッフからの
これらの言葉には心底参りました。


 スーパーリアルなコッキング式エアガンのM92F マルシンさんは独自路線で頑張っていました

それでも気心の知れたスタッフもいたため、
進行のほんの合間に談笑していたのですが、
その笑い声がよほど癇に障ったのでしょう。

「オラ! 笑ってんじゃねぇよ責任者さんよォ!!」

チンピラヤクザの恫喝もかくやという、
強烈な罵声が飛んで来ました。


そこから先のことは、ほとんど記憶にありません。
いや、マイクを握って決勝戦のMCを努めた時に、
完全なヤケクソになっていたのは覚えていますね(笑)

協賛メーカーにご提供いただいた賞品の配布も終わり、
会場を撤収したのは何時頃だったでしょうか。

撤収後、スタッフの打ち上げ等は行われたのかどうか、
そもそもどうやって帰宅したのかまで、
マッチが終わった後の記憶が
今度こそ完全に抜け落ちているのです。


 コクサイ産業さんのガバメント ステージ1優勝者の使用銃でした

こうして大混乱のうちに終了した、
狂騒の第4回プラチナカップ。

客観的な視点に立って見たら、
あれほどお粗末な大会は無かっただろうと思います。

わざわざ足を運んでくれた来場者を迎える体勢が
まったく整っていないばかりか、
一時は追い返そうとまでしたわけです。
現場の責任者が非難されるのは当然のことでしょう。
あれから26年が経った今ではそう考えることも可能です。

しかしあの時は、状況があまりにも理不尽に過ぎました。

イベントを手伝うつもりで出かけたその場で、
いきなり全責任を丸投げされた者の身になれば、

「なんで俺がこんな目に・・・」

当時の私がそう想ったのは無理もないことでしょう。


 SS9000改め、UX SUPER9 この時代、スナイパーライフルといったらこれでしたね

多くの人間の剥き出しのエゴにたっぷりと翻弄された、
世間知らずだった二十歳の私の精神は、
文字通りボロボロになっていました。

その日以来うなされて眠ることが出来ず、
突如意味も無く涙が溢れ出す状態になっていたのは、
今で言うPTSD、心的外傷後ストレス障害ですね。

”もうシューティングマッチには絶対に関わらない”
”シューターと称する人間には決して近付かない”

まんじりとも出来ない夜の中、固く心に誓っていました。


この記事を書くにあたり、
当時の記憶を掘り起こす必要があったわけですが、
おかげでここ数日、眠れない夜が続きました。
私にとっての第4回プラチナカップは、
それほど忌まわしい恐怖の記憶となっているのです。

ただ、以上の出来事はあくまで
私の記憶によって執筆したものです。

勿論、嘘や脚色は一切していないつもりですが、
大体において記憶というものは、
その当人にとって都合の良いエピソードに
書き換えられていることが多いと聞きますから、
すべての記述が正確だという保証が出来ないことは、
この項の最後にお断りさせていただきます。

私の記憶と異なる事実をご存知の方がいらしたら、
遠慮なくコメント欄に書き込んでくださいね。


 アンクルさんといえばフルオートガスガンでしたね 社長さんにはどれだけお世話になったことか・・・

と・・・なんとか今回で完結させようと思ったため、
いつにも増して長い文章になってしまいましたね。

こんなダラダラとした昔話を
多くの方が興味を持ってお読みくださっていることは
まことにもって望外の幸せであります。

これにて第4回プラチナカップについて
知る限りのことはすべて語り尽くしたわけですが、
皆さんご存知の通り、荒川の土手に場所を移しての、
第5回大会からが本当のプラチナカップと言えるのです。

どのような経緯で月例開催に至ったのか、
また、あれだけの目に遭った私が
どんな心境で毎月の運営を手伝っていたのか。

そのあたりについても、
当事者でなければ書けない
様々なエピソードが存在するのですが・・
どうですかお客さん?(笑)
こんな陰鬱な話しをこれ以上読みたいと思われますか?

というわけで、次回のネタは今のところ未定です。
リクエスト等あったら、是非コメント入れてくださいね。
  

Posted by カズヤ at 20:09Comments(11)シューティングマッチ